農薬ゼミの活動

活動内容は主に3つあります。

・ゼミ

基本的に毎週金曜日の午後6時半から、前期は農学部棟E220にて、後期は市民研にて学習会を行っています。テーマは毎回異なりますが、農業や農薬だけではなく、発表者によっては地方創生なども扱うこともあります。最新情報はツイッターやフェイスブックでご確認ください。

・調査

夏と秋に「病害虫調査」として、病気と害虫の発生具合を調査しています。この定期調査は30年以上も続けられており、学術的に価値の高いデータが蓄積されています。また病害虫の発生度と関連して秋には「収量予測」も行っており、この予測値を参考にしながら販売計画を立てています。そのほか、ミカン園の各ポイントにおける土壌の物理的・化学的な性質を調べたり、冬にはミカンの木の剪定を行ったりもします。

・収穫、販売、発送

今でこそ「有機栽培」「無農薬・省農薬」「産地直送」などがもてはやされていますが、省農薬ミカン園の始まった1970年代末にはせっかく作った省農薬ミカンも売りに行くところがなかったそうです。そこで農薬ゼミが中心となって宣伝・販売を行い、今では全国各地にお届けしています。安全であることはもちろん、味についても甘さと酸っぱさのバランスが良く、おかげさまで毎年好評を博しております。

2018年に省農薬ミカン生産者の仲田尚志(なかた たかし)さんが急逝され、後継者として大柿肇(おおがき はじめ)さんをお迎えしました。それに伴い、農薬ゼミも調査だけでなく農作業にも積極的に参加するようになっています。
2018年に省農薬ミカン生産者の仲田尚志(なかた たかし)さんが急逝され、後継者として大柿肇(おおがき はじめ)さんをお迎えしました。それに伴い、農薬ゼミも調査だけでなく農作業にも積極的に参加するようになっています。


-農薬裁判-

1960年代から70年代中頃まで、日本の農業は農薬・化学肥料全盛の時代でした。そんな1968年のある日、和歌山県海草郡下津町大窪のミカン園で、農薬による中毒事故が発生します。犠牲となったのは当時17歳の高校生であった松本悟(まつもと さとる)さん。両親と一緒に「ニッソール」という殺虫剤を散布したあとの急性中毒であり、点滴や解毒剤の投与もむなしく3日後に亡くなりました。もっともこれは当時としては珍しい事故ではなく、農薬会社から多めに香典が届けられる程度で「たまにあること」として社会的に忘れられるのが常でした。

 

しかし松本さんの両親は「国が許可した農薬を防護服をきちんと着て散布したのに中毒死するなんて納得できない」として、ニッソールを製造販売していた日本曹達、そして農薬を許可した農林省に対して3,200万円の損害賠償を求める訴訟を起こしました。農民が農薬問題を追及した日本で初めての裁判であり、今では「農薬裁判」「ニッソール裁判」と呼ばれています。

 

裁判は和歌山地裁で7年間審理されましたが、判決は完全敗訴。原告は翌年1978年に大阪高裁に控訴しました。さらに8年の審理を経た1985年に、大阪高裁の裁判長から「和解してはどうか」との打診がなされます。すでに16年もの年月が経過しており、原告の松本さんとその支援者たちは和解を受け入れることにしました。残念ながら国は和解に応じませんでしたが、原告と会社との和解、そして賠償金1,250万円の支払いが成立して、この裁判は終結します。原告の実質勝利となったこの裁判が、日本の農業にとって大きな転換点となるのでした。

 

 

松本武・エツコさん夫妻(1985年和解成立後の会見にて)
松本武・エツコさん夫妻(1985年和解成立後の会見にて)

関連年表
  • 1967年 新潟水俣病訴訟
  • 1967年 四日市公害訴訟
  • 1968年 イタイイタイ病訴訟
  • 1968年 「公害対策基本法」制定
  • 1969年 熊本水俣病訴訟
  • 1970年 カネミ油症訴訟
  • 1970年 「水質汚濁防止法」制定
  • 1970年 「農用地の土壌の汚染防止等に関する法律」制定
  • 1971年 環境庁発足
  • 1972年 「自然環境保護法」制定
  • 1973年 森永ヒ素ミルク中毒訴訟

 



石田紀郎(いしだ のりお)氏。2018年の収穫にて。
石田紀郎(いしだ のりお)氏。2018年の収穫にて。

「農薬ゼミ」「悟の家」の誕生

裁判を続けながら、松本さんは「農薬の被害を訴えている原告が今も農薬を使ってミカンを作っていてよいのか」「しかし無農薬のミカンなんて農協は引き取ってくれないのではないか」というジレンマを抱えていました。それを見ていた弟の仲田芳樹さんは、松本さんと話し合ったのち、農薬を"減らした"ミカン栽培を試みることにします。しかし2人ともベテランのミカン農家ではあっても、農薬なしのミカン栽培の経験はありません。1haの畑にミカンの苗木1,000本を植え、手探りのなか省農薬ミカン園が始まりました。

 

ちょうどその頃、京大において農芸科学の教官と学生を中心に、農業を考える自主的な勉強会として「農薬ゼミ」が開始されていました。数年前から農薬裁判を研究者として支援していた石田紀郎氏(当時京大農学部助手)も勉強会に講師として呼ばれ、以後ゼミメンバーとなります。

 

石田氏はゼミのメンバーと相談して、「ミカンの栽培は素人でも、研究者として、農薬を減らすとどんな病気や害虫が発生するのか記録することならできる」という方針のもと、農薬ゼミが省農薬ミカン園で定期的に調査するようになりました。

 

また日本曹達からの賠償金をもとに、1986年に省農薬ミカン園の近くに「悟の家」が建てられました。水道と電気、布団に冷蔵庫、そして焚火スペースと広場があり、調査や収穫の拠点として、多いときで20人ほどが寝泊まりします。