はじめに

 戦後、わが国の農業は化学肥料と農薬を多投することによって食糧の増産とその安定供給を実現してきた。その反面、大量に使用された農薬は環境汚染を引き起こし、人間も含めた生物相に与えた悪影響は計りしれないものがある。すでに判明している農薬汚染の影響は農薬による環境汚染の一部にすぎず、未解明あるいは推定の域に含まれる影響をも考慮するならば、農薬を大量に使用する農業形態からの脱却は農業、そして農学に突きつけられた最重要課題である。しかし残念ながら、農薬に依存する技術偏重への反省はその兆しが薄く、当面の対策として低毒性農薬の開発・採用によってその場をしのごうとする傾向にある。

 

 戦後の食糧不足を解決する手段として農薬が有効であったことは否定しえない。また、工業化の進展に必要な都市労働者への充分な食糧提供を可能にする手段としても確かに有効であった。しかし、農業軽視の戦後農政は、農薬偏重農業を必要以上に促進したことも確かである。化学肥料と農薬の多投は、農業だけでは生活ができない状態に追いつめられた農民にとって、省力化による生き残りのための手段であった。さらに、わが国における消費傾向がそれに拍車をかけた。食糧の安定供給が実現した段階から、量よりも質を重視するようになるが、簡単に品質を表す指標がないことから、品質を品位(外見)に置き換えて判断する傾向が強くなり、外見にとらわれた選択傾向を示すようになった。これも、農薬を大量に使用する重要な原因である。しかも、この間、農水省あるいは農協をはじめとする農業関係団体さらには流通関係組織が品位重視の消費傾向を助長する役割を果たしてきた。すなわち、食糧に求められる基本的要素である品質の良さよりも品位(外見)を重視する社会的傾向が助長された。

 

 そのような傾向の中で、多くの農民の農薬による健康障害、作物や飲料水の農薬汚染の深刻な状況が出現した。しかし、それに反して、その実態あるいは影響に関する調査研究はきわめて低調であったことは周知の事実である。近年、環境問題の深刻化と世界的な関心の高揚から、農薬多投農業への反省と使用量削減の試み、そして環境面から農薬多用を規制しようとの社会的な動きが出始め、政策面からも論議が始まりつつある。

 

 さて、ここで重要なのは、農薬多用の原因は農業技術全般との関係で論じられなければならないことである。前述した要因以外に化学肥料重視の肥培管理、耐病害虫性の弱い品種の採用、農業所得の低下と農業労働人口の減少、中央市場体系を中心とした物流システム、流通側からの農産物規格の設定、さらには農産物の輸入自由化、都市住民と農民との隔絶など、農業、農産物を取りまくあらゆる技術的、社会的、政治的諸条件のもとで農薬多投農業が進行してきたのである。だからこそ、これらの諸条件を整理し、悪条件を取り除くためには、社会的な取り組みの過程が重要である。その過程を経てのみ、農薬多投農業から、人間を含む生態系の安全性を重視する農業への転換は可能であろう。

 

 このような観点から、農業技術の枠内だけでは人間社会のあり方を問い直すことは不可能であるとして、消費者と農民との共同の運動が「有機農業運動」や「産直、産消提携」として展開されている。そして、この運動の過程で、化学肥料や農薬に依存しない農業技術が登場しつつあるが、これらの技術を科学的に追跡し、問題点を整理し、さらなる技術的向上のための基礎的な調査研究は極めて乏しい。有機農業運動の過程で登場した農法の多くは、必ずしも一般的な農法として確立されるまでには至っていない。そのような農法を採用した場合に発生する諸問題の記録、解析などの科学的調査が不十分なのである。

 

 本研究は農薬を農業の中から省くべき農業資材であると規定し、農薬を省いたウンシュウミカン栽培現場(省農薬園)で生起する問題を、疾病、害虫、雑草の発生状況を記録することを基礎として、省農薬栽培の可能性を科学的に明らかにしようとしたものである。また、本調査の特徴は小規模な実験圃場規模を対象にしたのではなく、現に農民が生計の糧としている農地を対象として、農業収入を維持しつつ行ったところにある。

 

 1978年から開始した調査は17年間を経過し、現在も継続している。本報告書は1978、1979年の予備調査を除いて、1980年から1991年までの12年間の調査結果をまとめたものである。

 

 この間の調査は、京都大学の研究者と学生および学外の学生や社会人によって構成されている「農薬ゼミ」によって遂行されたものであり、調査活動に参加した者は氏名が記録に残っているだけでも180名にものぼる。これらの人々の努力とミカン園の所有者である松本武、仲田芳樹の両氏およびそのご家族の協力のもとで実現したものである。また、本報告書の作成にあたって、調査結果の解析と考察には、農薬ゼミのメンバーである浅井元朗氏(京都大学農学部)、市岡孝朗氏(名古屋大学農学部)、中川ユリ子氏(龍谷大学)、中屋敷均氏(神戸大学農学部)の協力を得た。本研究の一部は日本生命財団の研究助成によった。ここに関係諸氏に感謝の意を表す。