旧牛舎前の新植ミカン

浅井元朗

1984年農学部農学科入学,翌年自然科学Iゼミ参加,大学三年時 より農薬ゼミ参加,1988~90まで農薬ゼミ連絡係,雑草学専攻, 1996年3月博士課程修了,現農林水産省農業研究センター 畑雑草研究室.

E-mail:masai@narc.affrc.go.jp

 

旧牛舎前の新植ミカン

 

 かつてミカン園の右手は畜舎であり,そこで仲田さんは牛を肥育 していた.調査の休息のひとときに牛を撫で,その返礼 にざらりとした舌で舐められるのが,調査の楽 しみであり名物でもあったのだが,今ではそれを知らない メンバーも多くなってきたらしい.牛は大量の糞を出し,それに 大量の尿をぶっかける.牛糞は堆肥となり,その多くは今や ミカン園の土と化している.

 

 牛の飼料はダイズやトウモロコシ,海を渡って運ばれてくる .飼料に紛れ込んでいた雑草の種子が,牛の体を経て,牛舎 の周囲やミカン園の内で芽を出しているのを私 はしばしば観察することができた.どんな外来雑草が見 つかるか,が私のひそかな楽しみでもあり,そのなかには農地 への侵入・定着としては未記録と思われる種もいくつかあった. そうやって,旧牛舎の周りの斜面には糞尿とその成分のかなりが 流れ出していた.その手前,道路側の斜面に平成7年の初夏, 仲田さんは6本のミカンの苗木を植えた.何という品種か忘 れてしまったが,調査区内の品種よりも早生であるという.その 斜面は日当たりがよく,牛糞のよく滲みた肥えた土で, カラクサケマンという名を与えられた,初夏に赤紫の花を咲 かせるかわいらしい‘よそもの’もそこに生えていた.いずれ植 えた苗木が成木となる頃,秋の定期調査に訪れた将来のゼミの メンバーが,調査区よりもより早く,より甘く熟したその果実 で休息時ののどを潤すことだろう.

 

 

北浦村の甘藷圃

 

 この5月末に,職場の新人研修の一貫として1週間ほど農家宅 にお世話になった.行方郡北浦村という茨城県東部の,霞ヶ浦と 北浦にはさまれた台地にある畑作のさかんな村である.受け入 れていただいたのは,二町歩の甘藷作を主とする九人家族の農家 であった.5月は甘藷の植え付けの真っ最中 にあたる.朝は指先をイモ脂だらけにしながら苗を 切る.夕方は見渡すばかりの畑に苗を挿してゆく.夜に酒を注 いで注がれる.そうして4日間を過ごした.名門大学を出た博士 さんの受け入れに,どうなることかと緊張していた三世代家族 はそれがまったく杞憂であったことに喜んだ.私 もたいへんさわやかな気持ちで-二日酔いさえなければ-楽 しかった村をあとにした.

 

 秋気の加わり始めた頃,‘植えた苗が収穫を迎えているから掘 りに来い’とのお誘いがあり,再び,今度は夫婦でその農家にお 世話になった.歓待を受け,収穫から洗浄,選別,出荷までのお 手伝いをし,山ほど甘藷をいただいた.妻もおおいに喜んだ .収穫は霜が降りるまで続き,その後は凍みいる田での 芹の収穫が待っている.私はこれからも北浦村に赴き,その農家 とのおつきあいが続くだろう.

 

 かつて水郷と呼ばれ,船で家屋と田を往き来したその村の,農家 の暮らしに触れながら,私はもちろん大窪のミカン園を,松本 さんや仲田さんを思い出す.

 

 農薬ゼミとミカン園とのつきあいは長く親密でありながら洗練 されたものがある.それに添い,盗みあるいは担い,「悟の家」 で松本さん,仲田さんらと盃を交わしながら,得たなにものかが 確かに私に染みついているようで,それらが今に及んでときおり 滲み出ては北浦村の甘藷農家との馴染みのよさをもたらしていることに疑いようはない. ときに独りで,ときに大勢で,十年近くミカン園に足を運び, 幾度も大窪の四季の風に吹かれた.研究という世界とも,京都 という都会とも離れて,大窪にそして日本の“むら”に, むかしからいまにわたって絶えず流れている,別の時間 があることを,その風が少しだけ私に沁み込ませたようである. 農学に携わる者にとってそれらは得難い経験であり,そうした 瞬間を重ねることのできた若い-特に自然科学系の-農学者 はそう多くはない.

 

 

ミカン園の雑草調査

 

 ミカン園に生えている雑草を覚えることが自分の義務だと思 いこみ,1988年から1992年まで省農薬園の雑草植生の調査に出向 いた.ミカンの樹の陰に屈み込み,草の種類とその量の記録を続 けた.多くの雑草の写真を撮り,標本を作った.若いミカンの樹 が埋もれるまで草を繁らせてしまった.それが私の雑草屋 としての始まりとなり,それはまた得難き精神修養の場 でもあった.

 

 優れた研究者を養成することが国家が大学院に与えた社会的使命 である.大学院生はそのために論文を読み,最先端を識り,実験 をかさねて最先端に届こうとする.できるだけ早く論文をまとめ ,恵まれた条件の職を得ることが望まれる環境である.私 はそうした中にいながら,学会誌のレベルに及ばなかった 野外観察に大学院生活の初期を投資したことは,今思えばなんと 悠長でぜいたくな経験であったことだろう.ミカン園に関わった 先人達が雑草分野で試みた仕事だけは越えよう,という健気な 意志が,若く無知な私を支えていた.

 

少なくとも,その目標だけは十分に達成されたと確信している. 実際の農家圃場に踏み入り,複数年にわたりその管理と雑草の 季節変動を記録し,かつさく葉標本を残している調査例は, 果樹園雑草専門の研究者と呼べる人材のいない日本において,私 の記録ほど充実したものはおそらくない.

 

 江戸時代の農地にどのような雑草がどれだけ生えていたのか, またそれは農民の営み(耕種)とどのように関 わっているのかについて,我々はそれを推測 でしかうかがいしることができない.しかし22世紀の農学者 には,日本の和歌山県の,昭和から平成にかけての時代のミカン 園の雑草について十分な資料が残されている.農学的な成果 としてはともあれ,博物誌としては省農薬園の雑草の記録の価値 は大きい.

 

 

農薬業界・農薬問題・農薬ゼミ

 

 大学を終え,研究公務員としての生活が始まって半年が過 ぎようとしている.農薬ゼミの実働から離れてやはり何年かが過 ぎた.

 

 今の職場は除草剤業界との関係が深く,企業からの来訪者や電話 も頻繁である.過去には消費者団体からも来客があったらしい. 隣席で交わされる迅速でシビアな応酬に耳を塞 ぐだけのずぶとさを私はまだもっておらず,それで思考が中断 することも稀ではない.漫然と過ごしていれば,そうした業界 への対応・対策のみで研究生活の大半を費やしてしまう恐れすら 十分に孕んでいる.

 

 私の知る限り,農薬ゼミの出身者はなぜか学問や運動の世界への 志向が多く,業界を避けているのか,あるいは無視 されているのか判らぬが,例えば私のようなそうしたほんとうの ,農薬“業界”に関わっている人は少ない.そうした“業界”は ,基本的にこれまでの農薬ゼミでの活動や議論が届きにくい世界 だといえる.

 

 上司は外資系の農薬企業から転身してきた,除草剤科学と 除草剤利用のさらなる発展に情熱を燃やしている方であり,私 にとっても,それは十分刺激的ではある.その上司の役割の一 つに,各県で試験された新規除草剤の登録の会議を運営し,剤の 可否を判定する,というものがある.それは科学的な判断 とはまた別のものさしもはたらくリアルな世界であるらしい.好 むと好まざるとに関わらず,私もいずれそうした役割を担 うことになるだろう.

 

 

 おそらくこれからも,農薬そのものと農薬をどうするかという 問題とは縁が切れそうにないだろうし,そういう運命 であるようにも思える.

 

 

 このように,省農薬園をはじめとする農薬ゼミでの経験はかつて 私の中で大きな割合を占めており,その経験はこれから順接的 にも逆接的にも私の中に生き永らえることだろう. 報告書の執筆者の一人として名前を連ねることができたことに, これまでお世話になった皆様へ厚く御礼を申し上げる.