1章 省農薬ミカン園の概要 1.はじめに

 多くの農作物栽培と同様、日本の柑橘栽培では、農薬を大量に使用することによって病害虫を抑える方法が一貫して採られてきた。地方によって多少の違いはあるが、1970年代後半以降は、ほとんどのウンシュウミカン(以下ミカンと略記する)栽培地で、年間のべ10回から20回に及ぶ薬剤散布が行なわれている。人体への毒性、環境汚染、リサージェンスといった様々な農薬の弊害が社会的に広く認識されるようになった現在でも、その状況に大きな変化はない。

 

 本省農薬園は、紀伊水道を見渡す和歌山県海草郡下津町大窪の山腹に位置し、同町在住の松本武・仲田芳樹の両氏によって、20余年の月日にわたり、使用する農薬を出来る限り減らして経営されてきた。本調査地の存在する下津町は、和歌山県内でもミカン栽培が盛んな地域に属しており、日本有数のミカン栽培地域である。柑橘の輸入自由化後は、廃園となったミカン園も少なくないが、文化的、経済的にも地域のミカン栽培が担っている役割は大きい。現在では、ミカン農家の生き残りをかけて様々な工夫が試みられており、高級化を志向したものでは、ハウス栽培による一玉一玉管理された芸術品とも言えるような高級ミカンが生産されている。また、有機栽培による付加価値を志向し、生協との提携販売も一部で試みられている。

 

 近年、環境問題が社会的に注目されるようになり、低農薬、有機農法等が脚光を浴びる時代となった。国や農業試験場でも低農薬農業の研究が始まり、1992年には有機農産物のガイドラインが農林水産省によって設定されている。1993年現在、全国で約900グループ、2万1千世帯の農家が有機農業に取り組んでおり、有機農法や自然農法等の農薬を減らした農法が白眼視されていた時代から、事態は確実に変化している。農薬を減らした、あるいは無農薬による農業には、全国の尊敬すべき篤農家達による数々の実践例がこれまでにも報告されている。それらの中には創意工夫により農薬を用いた慣行農法に匹敵、あるいはそれを凌ぐ成果があげられている例も少なくない。しかし、農薬を減らした際には、品位と収量の低下が一般的であり[1-1]、誰もが経済的に安定した収量を低農薬で確保できる技術が、現在確立されているとは言い難い。その原因として、これらの技術が個々の農家の経験や直感からくる工夫の集積と言うべきもので、一般化するための客観的な現象の記述にやや難があったことも、その一つとして挙げられるだろう。

 

 一般化された方法で農薬依存型農業から脱却することを目的とし、昭和40年代の後半から提唱された概念に総合防除(IPM; Integrated Pest Management)がある[1-2]。これは、害虫や、病原微生物、雑草といった生物の生態をよく把握した上で、農薬使用も含め、耕種的、生物的、あるいは育種的防除法等を組み合わせて、病虫害を経済的許容限界以下に管理するという概念である。この総合防除の成功には、それら生物達の生態調査や農薬による防除を中止した際におこる生物相の動態変化の解析が必須であるが、この分野の科学的な記述による研究は、総合防除が叫ばれてから20年以上たった今日においても、まだ立ち遅れている現状と言わざるを得ない。

 

 ミカンをはじめとする果樹は、生育期間が数年あるいは数十年以上におよび、穀類、蔬菜などと異なって室内で実験的に取扱うことも難しい。そのため、省農薬栽培が病害虫の発生にあたえる影響を評価するためには、野外を中心とした大規模で長期間の調査が必要となる。そうした理由で、効率性を重視する科学者はこのような調査研究に積極的に取り組むことがほとんどなかった。果樹栽培における省農薬栽培の実証的研究は、ごくわずかの例外[1-3,4,5]を除いて、ほとんどなされていないのが現状である。

 

 また、農業は生産者の生活を支える営みである以上、農業における新しい技術は試験的な規模で成立するだけでは十分でなく、経営的な規模で成立することが必須である。この際には、技術の理学的な評価だけでなく、その技術の経営、経済的な損益評価や収穫後の農産物の流通機構の問題等も含めた統合的な分析が望まれる。こういった意味からも、自然農法、有機農法、省農薬農法等といった安全性を重視した農法の統合的な分析や記述の報告は現在まで希少である。

 

 本報告書では、省農薬園の1.土壌分析、2.病害虫、雑草の発生解析、3.病害虫による被害の解析、4.果実収量とその品位、品質調査の4つを主な項目としている。第2章では土壌分析が記述され、省農薬園では園内に土壌肥沃度(第2章参照)の偏りがあることが明らかとなった。その結果、本園を土壌肥沃度により大きく4つの区域に分けて考えることが妥当であることが示された。このような観点から、第3、4、5章では、雑草、病害虫の発生解析と慣行栽培園との比較、および病害虫による収量の被害解析を行なった。土壌の肥沃度は果実収量に大きく影響を与えるため、被害解析は土壌分析の結果を受けたものとなっている。第6章では、ミカン果実の品位、品質の解析を慣行園の果実と比較して行なった。また、品位、品質に影響を与える要因に対する考察も加えた。第7章では、ミカンの省農薬栽培の可能性とその価値について総合的な評価を試みた。

 

 本章では、これらに先立ち、本園で行なわれているミカンの省農薬栽培法と標準的な慣行栽培法との比較、また調査地である和歌山県下津町大窪の概要について記述する。