1章 省農薬ミカン園の概要 3.調査地域の概観

(1)和歌山県および下津町の農業

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 1985年の農業センサスに基づいた『農家調査報告書』[1-8]によると、和歌山県は全国都府県および近畿6府県の合計と比べて、男子生産年齢人口のいる専業農家の割合がきわめて高く、その反対に第2種兼業農家の構成比が低い(表1-4)。男子生産年齢人口のいる専業農家(15.2%)、男子生産年齢人口のいない専業農家(8.3%)、第1種兼業農家(18.3%)、第2種兼業農家(58.3%)の構成比は、全国の都府県のなかではハウス栽培で有名な高知県のそれと似ている。

 下津町の1985年の専兼別農家数を見ると(表1-4)、県全体よりもさらに生産年齢人口のいる専業農家の比率が高く、第2種兼業農家が少ないのがわかる。

 県全体の農産物販売金額1位の部門別農家数では、「果樹類」が51.6%と半数以上を占め、2位の「野菜類」の8.4%をはるかにしのいでいる。単一経営農家のなかで果樹が58.5%(18745戸)と圧倒的に高く、複合経営ではあるが果樹類が首位であるもの(3136戸)をあわせると、全体の49.3%が主に果樹栽培で生計を立てていることになる。

 下津町にいたっては、その傾向がより一層強まる。1425戸の農家のうち1350戸が農産物を販売しているが、販売金額1位の部門別農家数では果樹類が、99.6%もの高率を占め、作目の類別収穫面積も、果樹が1355haで、全体の99.8%である。果樹の単一経営農家がほとんどで、複合経営が11戸あるが、半数あまりの6戸で果樹類が首位である。

 以上のように、下津町は、和歌山県下でもとくに果樹栽培の盛んな地域といえよう。そして、ここでいう「果樹類」とは、そのほとんどがミカンを中心とする柑橘類であることは言うまでもない('85果樹栽培農家数は、県計32796戸のうち温州20764戸、夏ミカン2754戸、その他の柑橘類15467戸、町計1419戸のうち温州1406戸、夏ミカン156戸、その他の柑橘類329戸である。3種類についての件数の合計が県計、町計の数を上回るのは、2種類以上を栽培している農家があるためである)。下津町は、ミカンとともに生きている地域なのである。

 

(2)大窪の概況と農業

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 大窪のムラの世帯数、農家数および人口の変遷をみると、1960年代から現在に至るまで、人口以外はあまり大きな変化はみられない(表1-5)。農家人口は、1960年から25年間で21.8%減少している。その間、農家数があまり減少していないことから、農家人口の減少は農家からの他出者を表しているといえる。また、大窪における総世帯数の減少と総農家数の減少にはあまり大きな差がないので、総世帯員数の減少が農家人口の減少と同様であると仮定すれば、25年間のムラの人口減少率は農家人口の減少率(21.8%)と同程度と考えられる。下津町の人口減少率が11.3%、県内の市部を除く郡部の合計が6.8%の減少であることを考えると、過疎のムラである大窪の姿が浮かびあがる。

 このムラの経営耕地の種類をみると(表1-6 )、1960年では水田の面積が13.7ha、樹園地が19.3haであるが、1970年になると、水田を持つ農家が42戸で8.4ha、樹園地が34.3haと、樹園地が増えてくる。さらに、1975年では水田をもつ農家が27戸に減少し、一方で、樹園地をもつものが58戸で45.3ha、1980年には53.4haにまで増加する。1960年代のミカン全盛期に樹園地が著しく増え、1980年代になってもミカンの生産を産業の中心とするムラであることがみえてくる。聞き取りによると、1991年でもミカン栽培農家がほとんどであり、一部にビワやキウイを栽培する農家がある程度である。

 大窪では、1970年から80年の間に専業農家が約半分となり、第1種兼業農家、第2種兼業農家がともに倍増している。その動きは、1950年代、60年代を通して、専業農家が約4分の1に減少し、第2種兼業農家が1.5倍以上に増加する県の動きとはかなり異質である(表1-7)。下津町についても、50年代、60年代を通して専業農家が半減するという動きは県のそれと似ているが、70年代にも専業農家は減少し、50年代に第2種が、70年代に第1種が著しく増加している。大窪の動きは、どちらかといえば県より下津町の動きと類似している。全国的に専業農家の減少するなかで、大窪の専業農家が60年代にはほとんど減らず、下津町全体でも、県全体ほどの減少を見せなかったのは、この地域のミカン栽培に大きく関係しているとみてよい。「どんなミカンでも作れば売れた」という地元の人のことばがそれを象徴する。過剰人口の一部はムラの外に流出し、ムラに残る人々は農閑期に勤めに出るか、あるいは、跡継ぎの若い世代が他産業に就業し、しかも家の生業としては農業であるという第1種兼業の形で、充分生計を維持できたのであろう。

 大窪の標高は300m前後であり、ミカン栽培地としてはやや高度が高い。オレンジの自由化による余波を乗り切るため、高級化で生き残ろうと考える下津町農協のミカン栽培では、大窪は落ちこぼれということになる。しかし、ムラのなかでは、本省農薬園とは別に、集落の範囲を越えてグループを作り、ミカンの省農薬栽培や有機栽培を試み、京都生協へ出荷するなどの動きも1980年頃からみられ、成功している。

 今後も、もし農業を続けるならば、ミカンとともに歩むしかないとさえ言えそうなこのムラで、省農薬栽培、有機栽培での採算がとれれば、適作地とは違ったやり方で活路を見いだす可能性もあるだろう。 

 

 

 文献

 

1-1)石田紀郎(1988) ミカン山から省農薬だより 

1-2)深谷昌次、桐谷圭治(1973) 総合防除 講談社 東京

1-3)足立 年一・藤本 清・藤富 正昭 (1975) ミカン害虫の防除回数低減に関する試験. 兵庫県農業試験場研究報告 24: 35-40.

1-4)Prokopy, R. J. (1991) A small low-input commercial apple orchard in eastern North America: managemanent and economics. Agric. Ecosystems Environ. 33: 353-362.

1-5) 浜村 徹三・芦原 亘・井上 晃一・真梶 徳純 (1984) 新植ミカン園の薬剤散布・無散布区における害虫及び天敵相と樹の生育. 果樹試験場報告E 5: 77-106

1-6) Inoue, T. and R. Ogushi (1977) Res. Popul. Ecol. 18:302-318

1-7) 松永良夫・西野操(1971) 静岡柑試報. 9:133-141

1-8) 農林水産省統計情報部(1985) 1985年農業センサス第2巻 農家調査報告書ー総括編