8章 省農薬園の評価とその可能性 1.社会的背景

 これまでの各章で省農薬みかん園における農業上の問題点を整理してきた。病害虫発生状況を中心とする本研究は1994年度で15年間にも及び、この間に本調査園をとりまく社会状況は大きく変遷した。それとともに農薬に対する社会的認識も顕著な変化を遂げた。戦後45年間、農薬多投を前提とする農業が主流を形成する時代であったが、その流れに抗して、1970年頃から省農薬、減農薬、無農薬栽培の試みが各地で行われてきた。ある時は単独で、また、ある時は地域ぐるみで開始されたが、どれも栽培方法を模索しながらの試みであり、その栽培方法、被害発生状況、収穫量などの詳細な記録が残っていることは少ない。そのために広く伝達されるべき成功事例も、篤農家の秘伝の域に止まっていることが多い状況である。本研究がこれらの重要な問題点をできる限り定量的に記載することを主眼として継続してきたことは、すでに述べた。数量化できるものは6章までに報告してきたので、この章では数値として記録することは困難であるが、このような形態の農業を継続していくときに重要であると考えられる社会的条件を記録しておくことを課題とする。

 

 

1.社会的背景

 

(1)ミカン生産の変遷

 全国のミカン栽培面積は戦前から現在に至るまでをみると、1973年をピークに大きな山型を描いている(図8-1)。1941年に4.5万haであった栽培面積は、戦後急速に拡大し、1973年には17.3万haに達している。しかし、その後は急速に減少し、1992年の全国栽培面積は6.9万haである。この間、生産量は戦前の42.9万トンから、最高値である1975年の366万トンへと8倍にも達し、ミカン過剰時代が到来したのである。そして、その間に到来した1972年のミカン価格の大暴落により、ミカン栽培は低迷期に突入し、生産地と生産量の再編時代に入ったといえる。

 戦前は静岡、和歌山、愛媛の3県が大産地で、この3県の合計で48.1%の生産量を占めていたが、そののち次第に九州地方での生産拡大が進展し、3県の合計をしのぐようになる。1992年には3県の生産量は40.4%に低下した(図8-2)。和歌山県の生産量についてみると、1955年に4.7万トン、1965年13.3万トン、1975年33.6万トンと増加の一途を辿り、その後は全国の動きと同様に急速に減少し始め、1992年には20.5万トンとなっている。この退潮傾向に歯止めはかからず、オレンジの自由化が追い打ちをかける展開となり、生食用のみならずジュース用ミカンまでもが過剰な状態となり、ミカン農家の収益は著しく減退した。

 本調査園の位置する和歌山県海草郡下津町においてもこの状況はまったく同じである。政府が提案した減反政策を受け入れ、多くの園が廃園となり、減反割り当て面積が予定期間を待たずに達成されたほどである。

 省農薬園が開設された1972年頃は農水省の進めるミカン栽培面積の拡大政策とそれに伴う補助金助成など、ミカン栽培農家の繁栄がまだ継続していた時代である。ところが、出荷が始まった1975年にはミカンの価格はすでに低迷期に入り、ミカン過剰が叫ばれるようになった。この頃から、栽培地では高糖系品種への転換が始まり、甘さと外見(品位)のよい高級ミカンが要求される時代となった。本園の品種である興津早生のような酸味の幾分高い品種は次第に敬遠されるようになっていった。

 

 

(2)生産者のわかれ道

 わが国のミカン産地の拡大と過剰生産によるミカンのだぶつきは生産者の中に二つの流れをつくり出した。ひとつはより品位を高めた産品を生産する流れであり、この流れは必然的に農薬多投農法を採用することになる。病害や虫害に感受性が高くとも、甘いミカンが消費者に好まれることとも相まって見栄えのする甘いミカンづくりは人気を博した。しかし、消費者のミカン離れはいかんともしがたく、困難な道をたどりつつある。もう一つの流れは食の安全性、環境汚染を考える消費者運動から、農薬を排除したミカン生産を追求するものである。社会的には流れと呼ぶまでに成長しているとは思えないが、農薬を省くことから発生する病虫害対策として、自然界の有機物を利用する方法や土づくり、あるいは電子水農法と言われるものなど、農薬による病害虫抑制に変わる方法が模索されている。

 前述したように、農薬依存型農業が批判され、農薬を減らす農法の模索が始まり、消費者運動として社会の一部分ではあるが定着したことが、本園が今日まで維持できた最大の理由であろう。

 

 

(3)消費量の減少とオレンジ自由化

 戦前、戦後を通じてミカンはわが国の主要な果実であった。とくにミカンはリンゴに比べて1個当たりの単価が低く、果菜類が少ない冬季の重要な果実であるため国内需要が高く、産地拡大が国の政策として過大なまでに推進されてきた。その結果、過剰なまでの生産地拡大と生産量の急増がおこり、価格低迷の招来が、生産量調整の実施をよぎなくさせた。高度経済成長の終焉時代には、多種類の果実が国内生産されるのみならず輸入されるに至り、ミカンの国内消費量が激減し、1980年代はじめの一人当たりのミカンの消費量に対して、1990年代の消費量は半分以下に低下している。かかる消費量の低下はミカンだけではなく柑橘類全般にわたり、さらにオレンジ輸入自由化がそれに拍車をかけた。この流れのなかで政府はミカン栽培の減反政策を適用することになる。本園の経営者である仲田も減反政策を受け入れ、1.5haのミカン園を廃園にしている。

 減反政策後もミカン価格の低迷は続いている。オレンジの輸入自由化は生食用のオレンジの輸入量を拡大したのみではなく、オレンジ果汁の輸入をも拡大した。ミカン農家の経営を直撃したのは生食用オレンジの輸入拡大よりも果汁の輸入量の増大である。過剰生産を続けているミカンの価格が維持されてきたのは生産調整と過剰分のミカンを果汁用に回すことによって生食用ミカンの価格安定を維持してきたのであるが、オレンジ果汁輸入量の拡大はミカン果汁の生産販売を圧迫し、本来果汁用に使用されるミカンが生食用ミカン市場に環流し、生食用ミカンの市場価格の低下を招いたのである。

 このようなミカンをとりまく状況の中で、ミカン生産農家の生き残り方法の選択幅は限られたものとなる。外見がよいものを生産するか、あるいは外見よりも安全性を重視する生産に転換するかである。前者は市場流通を中心とし、後者は産直(産消提携)の形をとる。いずれの方法をとるとしても、味が重視されることは当然である。

 農薬問題の視点からみると、外見を重視する栽培と兼業化は、より農薬に依存する栽培法への移行を促すものとなる。ミカン栽培に投下される農薬代の変遷をみると、1961年に反当たり6540円から1989年には25788円へと4倍に増加し、農薬多用の方向にあるが、ミカン生産低迷期となった1980年代後半からは増加傾向は鈍化してきた(図8-3)。

 農薬は本来、農業生産量の確保とその安定のために開発使用されてきたものであるが、近来は外見の良さを確保するために使用される傾向がある。とくに見栄えを要求される果実ではその傾向が強い。

 このような社会・経済的条件のもとで本園は20年間にわたって維持されてきた。前章で記したように、市場で流通しているミカンに比較して品位が低いものでありながら、生産品をすべて消費できたのは農薬多用農業に対する消費者の危機意識の高揚があったからである。