8章 省農薬園の評価とその可能性 2.省農薬園の継続に影響を与えた条件

(1)省農薬園を可能にしたもの

a. 農薬ゼミの歴史

 本調査の主体となった農薬ゼミは1975年に京都大学農学部に設立されたゼミである。学部のカリキュラムに組み込まれたものではなく、教官と学生が自主的に創立し、運営してきた、いわゆる「自主ゼミ」である。創設当時は5名ほどで構成されていたが、その後の環境問題の深刻化と社会的認識の高揚によって構成員は年々増加し、現在は30名前後が参加している。構成員の年齢構成は幅広く、また所属学問領域も農学部に止まらず、また他大学、社会人も参加している集団である。構成員は年々更新し、本報告での全調査年を通じてすべてに参加した者は少数であるが、調査手法の伝達は円滑に次世代へと継承され維持されてきた。

 構成員の共通認識は、「農薬多投の農業からの脱出」を実践的に展開したいということである。もちろん、農薬を直ちに使用しない農業を求めることができない現実を直視しながら、このような実践過程を科学的に記録し、分析する役割を分担する存在としてゼミは位置づけられている。

 現在の科学と科学者が置かれている状態は、いかに短期間の内に数多くの科学的業績(論文)を挙げるかであり、人間社会総体にとって必要な事項であっても、論文化するには長年月を必要とする科学的営為は必ずしも高く評価されるとは限らない。それゆえ、長期の観察を必要とする調査は敬遠されがちであり、おのずと室内実験を中心とする研究課題へと傾斜してゆく。それゆえ、大学制度内の研究集団では10年、20年の研究を継続し難い状況ができあがっている。15年間にわたって、このような地道な研究が継続可能となったのは、年々深刻化する環境、農業問題への危惧に向かい合おうとする意志をもった者達がなんの強制力も働かないところで集団を形成できたことである。そして、その調査研究の専門領域にいるものから、それとはほとんど無縁の者までの幅広い人材が調査主体を形成したことも大きな要因である。

 

b.農薬裁判から省農薬栽培

 農薬の主流が急性毒性の強いものであった1967年に、18歳の農業高校の3年生が農薬散布作業後に死亡するという事件が和歌山県下で発生した。松本武と悦子夫婦の長男である悟の農薬中毒死である。松本武は本調査園の所有者である仲田芳樹の兄である。死亡の原因となった散布農薬はミカンのカイガラムシ用に開発されたフッ素系農薬のニッソールである。散布状況の詳細は割愛するが、この中毒死をめぐって、国と農薬製造会社に対して損害賠償を求める民事訴訟を両親が提訴し、1969年から和歌山地方裁判所で裁判が始まる。その後、大阪高等裁判所で1986年まで裁判は継続した。「ニッソール裁判」とも「農薬裁判」とも呼ばれたこの裁判は、農民が農薬の毒性問題を提起した唯一の裁判として世間の注目を浴びることになった。裁判は1986年に製造会社との和解によって終結した。

 本裁判が開始されて以降に仲田は農業構造改善事業の助成金を受けて新園を開設した。そして、農薬裁判の原告の弟として、できるだけ農薬を使用しないミカン栽培をこの新たに開設した園で実施してみたいと計画した。その後の栽培方法などについては1章で記述した通りである。栽培者である彼は下津町大窪に生まれ育ち、20歳代からミカン農民として生きてきた人である。彼が農民として生きてきた時代は農薬使用が大前提であり、農薬を使わない、あるいは省くミカン栽培の経験はなく、省農薬栽培への意気込みはあったが、さしたる方針があったわけではなく、開園後も試行錯誤の連続であった。

 

c.とぎれた経験と市民運動

 戦後、わが国の農薬使用量は急速に増加し、1974年にはその量は72万トンにも達し、世界でもっとも農薬を投入する農業へと変った。その後、コメの過剰を理由に進められた減反政策による農業の衰退とともに農薬使用量は減少に向かい、1980年に60万トン、1990年には50万トンとなった(図8-4)。しかし、全国的な使用量は減少していったが、単位面積当たりの農薬使用量は増加する傾向にあり、世界的にみて農薬多投農業であることには変わりがない。このことはミカン栽培にもあてはまり、図8-3に示すように、ミカン生産に投入される農薬費は経年的に増加してきた。化学肥料の多用とも相まって、病虫害の防除には農薬を使用することが前提となり(慣行農法)、農薬を多用しない農業の経験者が皆無となる状況を生みだした。

 このような農薬使用状況のもとで、環境汚染が進行し、多くの不幸な事件や事故が多発したことは周知のところである。それにもかかわらず、農薬多投の傾向が継続する時代に農薬裁判が提訴され、省農薬園が出発したのである。1980年代に入って、やっと環境問題が社会の主要に解決すべき問題として論議されるようになった。とくに、環境問題が一地方の、あるいは一国の問題としてではなく、地球規模的問題であるとの認識の広がりは、農薬の存在を根本的に反省する社会的機運となりつつある。それでもなおかつ、わが国の単位面積当たりの農薬使用量は減少傾向さえ見せていないのが現状である。

 農薬とは、農作物を病害虫の被害から保護し、農業生産を向上させ、農産物の品質を高める目的で使用されるものである。しかし、残念ながらわが国における農薬使用の実態は、生産の安定と品質向上の目的以外に多用されている。すなわち、農産物の品位を保つために相当量が使用されていると言っても過言ではない。農産物の品位とは、言い換えれば外見の美しさ、見栄えのことであり、個々の農産物がもつべき栄養価などの品質とは相関しないものである。生産の場と消費の場に介在する流通システムにより、市場では、品位があたかも品質を表すかのごとくに誤解されている現状にある。それゆえ、農民にとって農薬とは、病害虫から農作物を守り、農業生産を安定化するために使用することに加えて、それと同程度あるいはそれ以上に品位を高め、市場でより高値で売買されるためのものとなっているのが現状である。消費者が品位を気にしない状況を作り出せば、それだけで何種類かの農薬を省くことは可能なのである。

 

d.購買者の確保

 1972年に開設された本調査園は1975年から果実の出荷が可能となったが、前述したように、品位重視の市場でこの園のミカンが売買されるとは考え難く(市場への出荷は可能であるが、売買が成立しない)、どのようにこの生産物を販売するかが大きな課題であった。幸い、初年度はわずか250箱(総量として7.5t)であり、農薬裁判を支援するメンバー(多くは東京と大阪に在住)の共同購入として消化された。それ以来、農薬裁判が和解し終結した1986年まではこの方式で販売され、裁判支援の意味も込めて毎年完売されてきたが、裁判が終わり、裁判支援の運動が終焉するにあたって、省農薬ミカンの販売網も縮小せざるをえなくなることが予想された。このままの状態ではここまで育成してきた省農薬園は、消滅するか、縮小するか、あるいは品位が高いミカンだけを農協へ共同出荷するか、いずれかの方策をとらざるを得なくなる。しかし、それでは、省農薬栽培の可能性を追求する本園の試みは根底から揺らいでしまうことになる。そのような事態を目前にして、農薬ゼミで議論を重ねた結果、別の消費者団体に共同購入を依頼することも可能ではあったが、農薬ゼミと本園の関わりの深さを考えるなら、農業としての本園の成立と省農薬農法の可能性を追求する農薬ゼミの調査とが一体化する方途を採用すべきであるとの結論に達した。すなわち、農薬ゼミがこのミカン園の経営を安定させ、省農薬農業の成立により深く参画するために、この園で生産されるミカンの販売に責任をもつということである。

 1987年から開始した農薬ゼミによる全量販売体制は現在まで順調に経過し、ほぼ完売してきた。宣伝、注文、配送までの流通部門を請け負うことによって、ゼミとしても収益を上げ、その収益によって次年度の調査費用を賄う方式で今日にまで至っている。このような作業を調査活動以外に分担することによって、消費者の購買意識の動向、市場流通の問題点、品質と品位との関係までをゼミ内部の議論の範疇に組み込むことが可能となった。販売に携わることによって省農薬園を守り、それが、つまるところ調査を15年間にわたって継続しえた大きな理由のひとつとなったのである。

 省農薬栽培や有機農業の成否に、「生産者と消費者との顔の見える関係が必要である」とはよく言われるところである。その関係とはたんに「顔見知りの関係」ではなく、栽培と生産物に対して共同の責任をもつということである。両者間での責任の分担方法はさまざまであろうが、その関係を創出していく過程は、重要である。

 

e. 天敵導入を可能にした条件

 4章で詳述したように、カンキツ栽培上の最大害虫であり、本調査園でも最大の害虫であるヤノネカイガラムシの防除対策として、ヤノネキイロコバチとヤノネツヤコバチを導入することによって、効果的な防除が実現できた。本天敵は前述したように、すでにわが国に導入され、ヤノネカイガラムシの防除に有効であることが証明されていたものである。これらの本園への摘要と防除体系の確立にあたっては、天敵導入以前の3年間にわたってヤノネカイガラムシの防除対策として実施していたマシン油の散布を中止し、ヤノネカイガラムシの密度を増大させ、天敵の導入とその後の定着を可能にする対策を講じた。この対策は農業生産上ではきわめて危険な要素を含んでおり、天敵の定着と防除が不成功に終わるとすれば、本園のミカン生産は大幅に減少し、農業収入が激減する可能性を十分に含んでいた。このような危険性を含んでいた実験計画を実現できたのは、栽培者の省農薬栽培を実現したいという熱意と、栽培者と調査者との間に培われてきた農薬裁判の過程を含む20年来の交流関係が存在したからであろう。

 

f. 隔離された地理的条件

 慣行防除法よりも少ない農薬使用量で栽培する農法をここでは省農薬と表現してきた。農薬の効果を認めながらも、農薬による農民や環境への負の効果をより重視し、農薬多投農業からの脱出を模索する農法である。このうちには、まったく農薬を使用しない無農薬農法も含まれる。しかし、それが必ずしも到達点というわけではなく、条件によっては選択しうる一つの方法にすぎない。いずれにせよ、これらの農法は世間的に容認されるまでには至っておらず、さまざまな批判と非難にさらされているのが現状である。

 これらの批判あるいは非難は三つに大別される。1)農薬擁護論 2)恩恵論 3)隣迷惑論と、名付けてみたい。

 「農薬擁護論」とは、”かつての農薬(BHCやDDTなど)は人間にも環境にも多大の悪影響を及ぼしたが、その反省のうえにたって、現在の農薬は安全性を重視したものになっているから、安心して使用すればよい”との見解である。しかし、現在市販されている農薬の発ガン性や生態環境に及ぼす影響が新たにクローズアップされ、次々と登録されなくなっている現実は何を物語っているのであろうか。1993年12月に水道法が改定され、水質基準項目と水質監視項目に11種類の農薬が選定された。わが国での環境面からの農薬の規制はようやく始まったばかりである。現在使用されている農薬についても、農薬を危険視する立場の研究者からその安全性を疑問視されているものは多い。農薬を単純に擁護することは、やはり危険である。以前に比較すれば急性毒性の低い農薬が主流をしめるようになったという程度に留められるべきであろう。

 「恩恵論」とは”大部分の農耕地が農薬による病害虫雑草防除をしており、そのような環境下であるから省農薬農法が可能かもしれないが、すべての農耕地で実施することは不可能である”とする考え方である。農薬とは、ある地域の病害虫を絶滅させるものではなく、それらの生息密度を低いレベルにまで抑制するものであるというのは科学的常識である。したがって、省農薬栽培は周辺の病害虫の生息密度が低い条件下で実施されていることは否定し難いが、病害虫の存在が皆無になったわけではない。周辺部より農薬を減じた栽培をすれば、周辺部からの病害虫が侵入することもありうる。すなわち、恩恵よりも危険を被ることもあり、農薬散布地帯の中だから省農薬栽培が可能だと断言することはできない。

 「隣迷惑論」は恩恵論とは逆に”省農薬栽培は病害虫を繁殖させるため、隣接の農耕地へ病害虫が伝搬し、迷惑を与える”とする論である。たしかに、病害虫は風媒、水媒でそれぞれの勢力範囲を拡大しているのであるからこの論には一理はある。実際に無農薬によるリンゴ栽培農家が隣接園の農家から病気を伝播されたとして損害賠償裁判を提訴された北海道の例がある。この裁判では「その年に病気が発生したのはその地域全体であって無農薬園からの伝搬とは断定できない」、「隣接部分で多発しているとは言いがたい」と、「隣迷惑論」を立証できないままに和解した。

 本調査園は、ミカン園が密集して存在する和歌山でも有数のミカン産地である下津町の山地中腹にある。本園の周辺は雑木林であり、ミカン園と直接に接する園はなく、病害虫の発生あるいは伝搬について隣接園から苦情が生じない地理的環境に置かれている。そのため、開園以来現在まで、隣接園所有者をはじめムラとの間で、省農薬栽培に起因するもめごとが皆無であった。これは本園を20年間にわたって成立させてきた重要なポイントのひとつといえよう。

 省農薬あるいは無農薬栽培の試みが各地で挫折してきた理由の一つに、この隣迷惑論がある。わが国では稲の病害である稲熱病をはじめとして発生予察事業が長年続けられてきた、その事業の対象は町村単位など相当に広域であり、それなりの有効性を発揮してきた。しかし、小規模地域での発生予察と実際の発生程度との関係についてはほとんど研究がなされていない。単作地帯において、一枚の農地だけの省農薬栽培が隣接農地での病害虫発生といかなる関係があるかを解明するような研究の蓄積が、過剰な農薬投下を前提としない農業への転換に重要な位置を占めるであろう。

 

 

(2)省農薬園の栽培上の問題点

a.園の仕立て方

 ミカン園の植裁密度はそれぞれの園の地形と関係して決定されるが、一般的には1.5間(2.7m)の間隔で植える方法が勧められている。この植裁密度も、それぞれの園の栽培管理の仕方によって適不適を生じるのは言うまでもない。たとえば、1本の木からの収穫期待量をどの程度に見積るのか、また、園全体からどの程度の収穫量を期待するのかによって植裁密度と個々の木の仕立て方は異なってくる。また、農薬を多用するのか否かによってもその方向は異なってくるであろう。

 本園は一般的に採用されている1.5間の間隔で開設された。当初1.2haの全園に1200本の2年生幼樹が植えられた。開設後10年までは樹冠も小さく、樹間は広く空き、農作業のための往来も容易であったが、その後の成長により、毎年の剪定にもかかわらず樹間が極めて狭くなり、農作業の不都合を生じている。各樹からの収穫期待量が多くなる方向で仕立てられたため、20年を経過した現在では樹の込み合いは密になり、栽培を困難なものとしている。

 本報告6章にも述べたように、樹の込み合い度の増加は樹間の風通しを悪くし、降雨後の枝葉の雨滴の乾燥を遅らせる。その結果、本園の最重要病害であるそうか病の多発の一因になっていると推定される。この園が開設植裁当初から現在のような省農薬(病害虫については無農薬に近い栽培)を意図していたのなら、植裁間隔を慣行農園よりも広くとるべきであった。成木園となった現在、さらに省農薬栽培を継続していくとすれば、現在の植裁密度をそのまま維持するよりも、一列おきに伐採し、樹間を広く開け、個々の木の仕立てを変えることが適当である。ただし、このような間伐には二つの問題が生ずる。一つは、間伐から個々の樹の仕立て直しの期間、収穫量が減少することである。その間の生産者の減収をどのように保証するのかというのが問題である。予想されるもう一つの問題は雑草対策である。樹間を広くとることによって、樹間地の日射量は増加し、雑草の繁茂を引き起こすであろう。通常のミカン成木園では樹冠が地表を覆い、樹下の雑草の生育を押さえるので、雑草対策は容易である。3章で述べたように、いまだ除草に関しては、人力以外の生物的防除が見つけだせない状態にある。もし間伐すれば、しばらくの間は除草剤に依存せざるをえないことになる。

 

b. 高齢化と労災

 生産者の高齢化はミカン農家も例外ではない。高齢化にともなう労働力の低下は論議するまでもないが、高齢化は労働災害の頻度を高くする可能性をもつことに注目すべきである。本園の栽培者である仲田は1994年現在65歳である。開園時は40歳代の働き盛りであったが、もはや高齢就業者の範疇に入る。このような農民にとって、傾斜地に展開されている和歌山のミカン園での農作業は厳しい。そして、厳しいだけでなく危険である。本園は、この地域に多い段々畑状の園と異なり、全体を斜面地にした工法で開設されており、平坦部分が希少である。斜面地での除草機による除草作業、収穫運搬作業などは足を滑らす危険をともない、高齢者にとってはとくに危険度が増す。1989年に仲田は除草作業中に転倒滑落して除草機で脚部に重傷を負い、数カ月の治療を要した。さらに、本園は樹々が込み合っており、そのような狭隘な樹間での作業(除草、施肥、果実搬出など)は労災を引き起こす危険性が高い。また、高木仕立ては収穫のため木に登る必要があり、高齢者労働には適しない。省農薬栽培を可能にし、高齢者が働きやすい園の仕立て方を検討することが本園の課題である。

 

c. 気象変化による災害

 農業は毎年の気象変化に対応して営まれる生業であるが、急激なあるいは異常な気象変化に対応できないこともその特色である。本園に重大な被害をもたらした気象事件として次の二件を記録しておく必要がある。その二件とも、残念なことに充分な被害調査を実施できなかった。

 1984年に和歌山県に襲来した台風は本園にも甚大な被害をもたらし、園中央部の300本近くの樹が倒伏するか、根が浮きあがった。大部分の樹は立て直すことができたが、その後の生育が遅れた。この被害を通じて二つの問題が明らかになった。ひとつは、純粋に生物学的被害の問題であり、これに対してはこの年はミカンの結果量を少なくして、樹の消耗を軽減する対策を講じた。もう一つの問題点としては、このような突発的被害に対処するためには、短期間に集中する労働力が必要であるが、後継者のいない仲田には樹の立て直しに相当の日数が必要であった。農業が自然相手の営為であるかぎり、突発的な事件を常に覚悟しておかなければならないが、高齢化や後継者の不在はいわゆる農業の足腰の弱さとして突発的事件の被害を拡大してしまう。

 1983年の冬は異常寒波が全国的に襲来した。とくに標高が300メートルもある本園は寒波の影響をより激しく受けた。当時カイガラムシ対策として冬季マシン油を散布していたが、2月中は散布液が散布機およびホース中で凍結し、散布が困難となったほどである。このような低温期の連続はミカン樹に多大の被害を発生させた。いわゆる凍害の発生である。凍結したミカン葉は融解後も葉は巻いた萎凋症状を呈し、潅水したものは比較的早期に回復するが、直射日光にさらすとその萎凋の回復が遅れる。つまり、夜間に凍結した葉が日中の直射日光にさらされ、溶解するという過程を数日間くり返すと、萎凋程度は進み、まもなく落葉する(カンキツの気象災害、小中原実著、農文協、1988)とされている。本園もこの凍害にみまわれ、全園が凍結した。ただし、園の右側(東部)は日中も直射日光に当たらない地形であるため、一日中凍結状態が保持されていたが、左側(西部)は日中の数時間は直射日光が当たる部分であり、融解し、夕方から再び凍結する状態が継続したため、萎凋状態から落葉に至った。結局、調査園の約三分の一の樹で全葉が落葉した。

 このような凍害によって枯死樹が発生することもあるが、本園では幸い枯死に至るものは少数であった。しかし、樹勢の回復は困難で、前章で記載したように本園左側部分(西部)の樹勢が低く、改植数が多いのはこの年の凍害の影響も手伝っての結果であろう。