環境・農業年表

by 小林 由佳(京都大学農学部農学科D2)

 

 

朝日年鑑より抜粋

 

 

 朝日年鑑の戦後50年を振り返った年表の中から農業問題、公害問題について抜き出した。

 

 松本悟君のニッソール中毒死と水俣病などの公害病は、個人か地域かどちらが受けた被害であるかという差はあるけれども、根本的に原告は原因を作った企業と国を相手にして裁判を起こすという点で非常に類似している。よって、農薬ゼミで農薬問題を考えていく上で、公害裁判の歴史を振り返ってみることは有意義なことと考えられる。

 

 まず、公害問題が顕在化して裁判によって一応の解決が見られるまでには長い年月がかかることを痛感した。例えば、水俣病は正式に病気が発見されたのが1956年、そして、その原因が日本窒素の排液によるものだと結論づけられたのが7年後の1963年、さらに、熊本地裁の判決がでたのがさらに10年後の1973年である。また、足尾銅山の補償問題が完全に解決したのは事件発生後80年たってからであることも、やはり、解決への時間の長さを示すものであるだろう。この水俣病問題に対して、注目したいのは熊本大学の水俣病研究班によって水俣病の病原を新日本窒素の排水と結論づけていることである。

 

 また、農業年表をみてみると、このような公害問題において大学がなんらかの役割を発揮している場合があることがわかる。特に宇井純らによって行われた東大での公開自主講座、公害言論の開講は、大学に所属している農薬ゼミの一つの活動の在り方を示しているものではないだろうか。

 

 

 農業に新しい風を吹き込みつつある有機農業運動は公害問題などが顕在化して、人々が自然健康食品などに目覚め始めた1975年ごろから起き始めた。農薬ゼミの成立はこの後、1978年のことであり、農薬は減らせるとのメインテーマを掲げ発足した。1978年当時は農薬の全国出荷量が最も増加した時期である。その中で、農薬は減らせるというテーマを掲げたことはその当時の農業の実状から考えると、非現実的なものであったかもしれないが、その後、農薬の全国出荷量は少しずつ減少してきている。これは、農薬が少量で効き目の高い薬剤になっていったためなのか、農薬は減らせるとの考えが浸透して減少してきた結果なのか、はっきりはしないが、おそらく、前者の方ではないだろうか。一部の有機農業従事者はともかく、全体で見れば、まだまだ農薬に頼っている農業ではないのだろうか。

 

 

 農薬ゼミが今まで勉強してきた事柄や社会情勢の変化をおっていくと、今後、農薬ゼミが何をしていくことが出来るのか見えてくるのではないだろうか。