省農薬と付加価値について

by 松田 史生(京都大学農学部農芸化学科四回生)

 

 農薬問題は以下にまとめられます。

 

  (1) 農薬の使用により、人々の健康、自然環境がそこなわれている。

  (2) 現行の流通機構では農薬の使用が強制される。

 

 農薬ゼミは「省農薬は可能である」を主題に農薬をめぐる社会の現状を批判してきました。

 (1)については、一般に難しいと考えられてきた省農薬農業を、下津町の調査園で20年以上にわたって実践してきました。今年まとめられた報告書からもわかるとおり、良好な結果を得ていて、技術的には省農薬は可能であることを実証しています。これは農薬ゼミの非常に大きな成果であって、広く公表する計画が進んでいます。

 一方、(2)について農薬ゼミがとってきた立場は現在の省農薬運動を理解する上で示唆的だとおもいます。省農薬園で収穫されたミカンは下津町の選果場を通さず、ゼミによって予約販売(あらかじめ決まっている値段で注文を取り、指定した日に届ける販売方法)を行い、これまで全量販売してきました。これは現在盛んになりつつある流通形態である産地直送とほぼ同じです。つまり、農薬ゼミはミカンの産直屋さんでもあるわけです。

 本稿では批判的にこの状況について考えてみます。

 まず、なぜ省農薬ミカンは選果場に出せないのでしょうか。

 ミカンは全国的に生産過剰気味で、値段も低迷しています。そのような中で市場での価格を少しでも上げるためには、少しでも品位の高い、つまり見た目の良い、おいしそうなミカンを集約的につくり、産地としてブランド化しなくてはならず、省農薬ミカンのような品位を度外視したミカンは選果場で除かれてミカンとして出荷することすら難しいからです。また品位の高いミカンの生産には農薬の使用が最も効果的な方法であるため、組織的に農薬が使用されることになりました。

 春に講演してくださった宗継さんのお話からも、市場、流通業者にとって、品位がきわめて重要であることは理解されます。売場の単位面積あたりの販売高を上げるために、規格化で徹底した低コスト化を行い、さらに品位の高い商品で客の無意識にまで訴えた商品配置までおこなっているのが現状です。

 消費者にとって、味は食べてみないとわからないため、ミカンの選択の基準は見た目しかありません。これが特に果樹において見た目=品位が重要視される理由でしょう。また、一般の小売店に慣行農法以外でつくられたミカンが並ぶことはほとんどないと思われますから、結局ほとんどすべての消費者が慣行農法のミカンを選択せざるを得ない状況になっています。

 こういった現状が三すくみになって、省農薬ミカンの市場流通を難しいものにしています。この問題は現在の資本主義的な社会システムの抱える基本的な問題、例えば環境問題などと同じと言ってよいでしょう。

 僕たちの生活するシステムには次のような性格があります。

 第一に物の売買において自由競争が(ある程度)認められています。つまり、ものをたくさん売ってお金をもうけることは悪いことではないのです。

 第二に売買されるものには値段が付いています。値段は物の価値に従ってつけられますがが、僕たちが実際よく理解しているように、物の値段は実際のその物の価値とはほとんど関係のない何らかの基準によってつけられることが多々あります。たとえば、おいしそうなミカンとおいしいミカンは違う物ですが、おいしそうなミカンと、まずそうなミカンが並べて売ってあったなら、みんなおいしそうなミカンを買うはずです。現在、生産時に、発色剤までまいておいしそうなミカンが作られ、そういうミカンがいかにもおいしいミカンのように宣伝されているから、そういうことになります。

 つまり、物の価値=値段とは作り出されたものであることがわかります。僕たちは消費の段階で物の実質的な価値だけではなく、物に付加された、たとえば「ハイセンスな生活」「おいしい生活」「地球に優しい」という作られたイメージに対してもお金を払っています。広告は「地球に優しくありたい」と訴えることで「地球に優しくしない、つまりこの商品を買わない奴は人間のクズだ」と暗に主張し、その商品の購入を消費者に脅迫しています。

 こういった中では物の価格に反映する価値を上げるために、広告などの様々な手法を使って、モノを魅力的にしようとします。

 

 農薬、食品添加物もそういった文脈の中で理解すれば、それは少しでも魅力的な商品を作り出すため──付加価値を上げるために使用されているといえます。

 よく、産消提携や産地直送と呼ばれる運動はいま述べたシステムの中で食品が扱われることへの批判として始められました。内実は、批判と言うよりむしろ全面的な否定といってよく、それは、日本有機農業研究会が70年代後半にまとめた「生産者と消費者の提携の方法についての十原則」によく現れています。

 

「生産者と消費者の提携の方法についての十原則」

 

1, 物の売り買いではない、人と人との友好的付き合い関係。

2, 産消合意の上での計画生産。

3, 生産物の全量引き取り

4, 互助互恵の精神に基づく価格取り決め

5, 相互交流の強化

6, 自主配送

7, グループの民主的運営

8, 学習活動の重視

9, グループの適正規模の堅持

10, 理想に向かっての逐次前身

 

 産直運動は、消費者にとっては安全な食品を手に入れることができるという選択肢をつくりだしました。この点は非常に評価されています。小さな共同体のなかで農業、消費、生活をより楽しい物にしてきたと思います。生協活動などとともに、ある程度一般的な消費形態になってきました。

 しかし、産直運動は非常にうがった見方をすれば、

 

・安全は便利さをしのぐぜいたく品である。

・安全のために、純粋に家事労働量が増える。

 

 と言外に主張しているように思えます。外部の人間から見ると、産直運動とは金銭的、時間的、精神的余裕のある人のための美食健康クラブ、のように受けとめられてしまう性格を同時にもっていると感じます。簡単にいうと、マンガ「美味しんぼ」の美食倶楽部に似ているといえないでしょうか。美食倶楽部には金持ちで美食趣味の社会的に地位のある人たちしか、入れません。対する山岡も安全性とかおいしさなどには非常にこだわりますが、それら食材の値段には一度も言及したことがないのです(ヘリコプターで生ガキを運んで喜んだりしている)。

 こういった側面は非常に利用されやすいものです。利用しやすいとは付加価値になりやすいということです。「美味しんぼ」は一大グルメブームを起こし、バカ高い食材が飛ぶように売れたことなどがありましたが、おいしい物が高価だったというよりはむしろ、高い物をみんなおいしい物だと思っていたという面もありました。

 現在、省農薬をうたった商品が一般の小売店にも並ぶようになりました。しかも、一般の商品より値段が高いことが普通です。最近盛んなエコロジーブームや健康ブーム、つまり、現在の生活水準と自然環境、健康をなるたけ同時に維持したいという消費者の意向を反映してのことだと思われます。

 ここでは省農薬は付加価値として評価されています。付加価値となった時点で、省農薬は他のたとえばブランドであるとか、きれいだとか、そういった物の値段を高くするための一つの要因と同じ物として扱われます。というかむしろ、流通の現場では省農薬は付加価値としてのみ理解されていると思われます。

 

 このことは次の2つの意味があると思います。

・省農薬作物が付加価値であるということは、省農薬が市場にとって良いことであることが一般に認められたことになります。省農薬ミカンが市場流通できる可能性ができたわけです。しかし同時にそのことは、農薬を使った作物は悪い物であり、そういう物を買うヤツはけしからんという意味を含んでしまいます。

・その、無農薬/農薬使用すなわちよいもの/悪いものがここでは商品の値段の高い/安いで表現されることになります。物の値段は貧富の差を明確にします。省農薬が高価であることは、簡単には貧しい人は農薬のリスクを背負うことを強制され、しかも社会的な悪人にされてしまいます。(よく、指摘されるように戦後の資本主義社会はそれまで値段が付き得なかった階級や権威と言ったものに間接的に値段を付けることで、表層的な意味で人々を平等にしてきたと考えられています。つまり、消費社会の前ではすべての人は平等であり得ました。商品の価格の高低はそれを購入する人の生活様式(簡単には貧富の差)を暗に示しますが、安価な商品を買うことが決して悪いことはありませんでした。それとおなじく、高価な商品を買うことが良いことでもありませんでした。そういう意味での平等です。高い物と、安い物には本質的には何の違いもありませんでした。しかし、そこによい/悪いという区別が導入される時点で構造が全く変化します。うまく説明できないのですが、簡単に言うと値段の高い/安いと言う関係の中に権力が生じ、差別が生まれます。) 

 このような構造を許容するかしないかはおそらく人によって分かれると思いますが、ぼくはとても重要なことだと思います。

 ぼくがここで主張したいのは次のようなことです。僕たちが生活をしてるシステムはきわめて複雑でしかもよくできています。そこへの批判やそこからの離脱を標榜する運動がとるであろう価値観や戦略はあっという間にそのシステムの中に組み込まれて簡単にはの高い商品を売るための道具として利用されてしまいます。省農薬の例では問題をシステムそのものに見て、システムからの離脱を目指したにもかかわらず、省農薬運動の目指した物とはあまり関係のないところでその理念の表層とそれに付随するだけが評価され、システムへの批判が巧妙にシステムそのものの存続にすり替えられ、しかも、貧富の差を顕著に拡大する(マルクス主義フェミニストなら、家父長制の存続をも企てると言うでしょう。それは家事労働量の増加、母性といった思想的な問題と関連します)システムを作るのにうまく利用されてしまっているのではないかということです。

 これはぼくが、いまのエコロジーとよばれる活動全般に感じていることと同じです。いかにもいいこと「安全性」「環境に優しい」「生命」「共生」などという言葉はよっぽど注意して使わないと、システムに簡単に利用されてしまいます。すきが多い言葉なのです。無配慮にそういった言葉を使うことがある種の差別を助長しかねません。農薬問題もある程度社会的に認知された分、そのことに相当自覚的でないといけないのではないかと感じています。

 そのような事態に陥らないためにはもっと、システムについて知らなくてはなりません。ミカンとはどのように流通するのか。値段はどこで決定するのか。そういうことをよく知っていなくてはいけないでしょう。それは同時にシステムの批判を行うための基礎体力になる物と考えます。

 

 

以上は10/20のゼミで発表された。そこでは次のような批判・意見が出された。

 

・産直運動などを類型化しすぎている。

・産直運動、生協運動などがシステムに対してそれほど大きな影響力を持っているとは考えにくい。

・価格の持つ現実的な意味から離れすぎている。

 

これらへの回答は気が向いたら行われるであろう。