『裁かれるのは誰か』 原田正純著 世織書房

 

酒井 章子(京都大学生態学研究センター研究課程)

 

 この本の書き出しは、何度読んでも心にせまるものがある。若い医師原田正純が水俣病の患者の家を訪れ診察をしようとして、診察拒否にであう。大学病院の医師がわざわざやってきて診て上げようと雨戸を叩いているというのに、患者は戸を閉ざす。

 

 著者は、熊本大学の医師としてずっと水俣病にかかわり、水俣病に関する本を多数著してきた。その中でこの本はとくに「専門家の責任」に焦点をあてている。この本で「裁かれる」のは、みずからを含む「専門家」なのである。水俣病の患者とその家族との関わりの中で、彼が専門家であることから逃げず(このことは大変しんどいことだと思う)に患者らとの距離を縮めていく過程と専門家がいかに無力で、むしろ解決を遠ざけるほうに働いたのかが正直に語られている。あとがきでは「水俣病とのかかわりの中で一番応えたのは同じ専門家といわれるものたちからの批判であった」とまでいっている。今、専門家が加害者になったエイズ薬害、オーム真理教の一連の犯罪を支えた有名大学出身の「科学者」等、社会は大学をはじめとする「専門家」の権威に不信をつのらせているのに「専門家」はそのことにあまりに鈍感であるように思える。

 

 もう一つ強くこの本で印象に残ったのは、紙面をにぎわせているエイズ薬害で批判されている審査会、調査班などの官僚のつくった専門家集団のいかがわしさが、水俣病においてもこれほどあからさまに露呈していたということである。いま、エイズ薬害でまったく同じ議論が繰り返されれているのをみると、水俣病という大きな出来事も専門家と官僚のしくみをまったく変えることができなかったのか、と思う。今度こそ、よい方向への変革をしなければならない。

 

 

 

 この本を読んでみようと思ったのは、このごろ、研究者であるということはどういうことなのか、と考えることが多かったからである。医学という比較的目的のはっきりした学問分野と私のかかわっている生態学のような基礎科学とは、単純に比べることはできないが、いろいろな人の考えを知りたいとかんがえていた。

 

 私はマレーシアの熱帯林をフィールドに研究をしている。いぜん、新聞記者に「その研究が熱帯林の保護にどうして役に立つのか」と問われ、「直接、私の研究が保護に役に立つとは考えていない」と自分としてはかなり思い切って正直にこたえた。しかし、記事になったものをみると「熱帯林保護のために研究している」といっているかのようにかかれており、抗議したことがあった。その記者ははじめから「熱帯林の保護のための研究」の取材にきたということもあり、私の一番書いてほしくないように記事を書いてしまったのだと思う。そのときは私は記者に対する怒りだけを感じていたが、1年以上たって思い返すと、自分自身は「役に立たたない」ということである意味での責任から逃げようとしていたのではないか、という気がする。

 

 最近は、どこかの自然を残すために、この種は珍しい種です、とお墨付きをあたえること以外に生態学の役割はあるはずだと考えるようになった。生態学の英訳である、「エコロジー」が、環境をまもることのような意味合いで使われているのは奇妙に思えるが、生態学会の自由集会には、環境教育、温暖化、酸性雨、など、社会的に注目されているキーワードがならんでいる。敦賀の中池見湿原保護の要請が生態学会として提出されようとしている。自分は、何をするのか、こたえはでていない。